映画「イニシェリン島の精霊」で主人公の二人は喧嘩などしていないと私は考えています。 また、アイルランド内戦は作品の背景に過ぎないと考えています。 それらの根拠となる解釈を、一問一答形式でまとめてみました。 当然、思いっきりネタばれ記事です。
2023年度のアカデミー賞で映画「イニシェリン島の精霊」は一つの賞も取れませんでした。
作品賞はポリコレの波に乗った「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」に行くかも知れないと思っていましたが、すくなくとも脚本賞、主演男優賞は取ると思っていました。
取って当然と思っていました。 その理由が今日の記事です。
【はじめに】
この「イニシェリン島の精霊」という映画に関しては、三本の記事を書きました。
《最初の記事》 イニシェリン島の精霊 - 駒澤塾
映画を見に行った日の夜に書きました。 公式の予告編と岡田斗司夫さんの動画へのリンクも含んでいます。 岡田斗司夫さんの動画は舞台となった孤島の話が半分以上で、スタジオジブリの魔女の宅急便の話も出て来ます。 2本の動画リンクで最低限の紹介をしつつ、私が感じたこの映画の主題について書きました。
《2本目の記事》 イニシェリン島の精霊:理解のポイント - 駒澤塾
1本目の記事を書いた後、この映画に関する分析の動画や記事を読んでびっくりしました。 ほぼ全員がこの映画は二人の喧嘩を描いていると言っていました。 そこで、この映画の中で注目して欲しい重要なポイントを4つ書きました。
《3本目の記事》 イニシェリン島の精霊:解説の公開を躊躇してます - 駒澤塾
解説記事の原稿(本日のこの記事)をまとめながら、私が考えるこの作品のメイン・テーマをそのまま公開して良いのだろうかと感じたので、その躊躇について書きました。
今日の記事は一問一答形式での詳細な解説です。
映画に正解を求めるなとか、観客はただ純粋に作品を見て心で受け止めれば良いのだと考える方には不要な分析だと分かっています。
しかし、作品に込められたメッセージをすべて受け止めたい、そう思って書いた記事です。
書きたい事が多すぎて9,000字を超えました。
文章を短くするために「それは違います」と言い切るかたちで書いていますので、もしも気分を悪くされるようならごめんなさい。
【絶縁宣言は突然か?】
「突然」ですよね、 パードリックにとっては。
しかし、コルムにとっては何年も悩み、いろいろなことを試した末の最後の手段であり、突然の発作的な行動では無かったと私は解釈しています。
映画では、本編が始まる前の二人のやり取りを「意図して」省略しているのでわかりにくくなっています。
なぜ省略したのか? 映画が始まってしばらくの間だけは、観客にパードリックの視点に立って呆然として欲しいからです。
【エスカレートする報復合戦?】
違います。 真逆です。
コルムが切るのは相手の指じゃありません。
自分の指を切ると宣言したのです。 なぜ切るのが自分の指なのでしょう?
そこまでやるぞと言えば、パードリックに自分の思いが届くと考えたからです。
でも届かなかった。
悩んで悩んで悩みぬいた末に口にしたことが役に立たなかった。
だからコルムは「痛みを感じない程の興奮」の中で、自分の指を羊の毛刈りバサミで切り落とし、それをパードリックの家のドアに投げつけたのです。
【不条理なふたりの争い?】
「不条理な男ふたりの争い」と言っている人の発言で、なぜコルムが自分の指を切るのかという理由への明解な説明は、まだ一つも見つけられていません。
せめて、かんべむさしさんの小説「ポトラッチ戦史」とからめた記述でもあれば、おもしろいのですけれど、争いなのになぜ「自分の指を」切るのか説明できている人は見つけられませんでした。
明解な説明がどこかに有るなら、ぜひ知りたいです。
【コルムの行動は異常?】
私は、何年ものやり取りで追い込まれた末の異常な行動だと思います。
映画には描かれていませんが、コルムは何十回もパードリックに対して音楽をやる時間を持たせてくれるよう頼んでいたはずです。
たとえば「音楽をやりたいからパブにつきあうのは一日おきにさせてくれ。」とか「今日は少し遅れて行きたい。先に行っててくれ。」とか。
その結果は?(ここからは映画の中ではっきりと描かれていることです。)
コルムのお願いは、一度としてパードリックには届かなかった。
毎日きっちり午後2時になるとパードリックが迎えに来るのです。
満面に「善い人(nice)」の笑顔を張り付けて。
【内戦のメタファーが主題か?】
監督が公式インタビューで内戦に触れていることから、配給元の紹介でも、映画評論家による解説でも、この映画をアイルランド内戦のオマージュであると言っています。
私は、違うと思います。
アイルランド内戦はストーリーの背景として使っているだけで「主題」ではないです。
公式のインタビューで監督は、内戦と二人の男の衝突が「並行して」起きているとは言っていますが、劇中でそのふたつを関連付ける表現は、いくつかのセリフ以外ありません。(もし有るようでしたら、教えて欲しいです。)
【コルムはパードリックが嫌い?】
違います。 まるで違います。
コルムはパードリックが好きなのです。 この映画の最後まで。
コルムが意識的に悪者になろうとしているシーン以外で、コルムがパードリックを嫌っている演技が有ったら教えてください。
「コルムがパードリックを嫌いになった結果」と動画でしゃべっている映画評論家が居ますけれど、あらすじだけ読んで評論をしているのでしょうか。
【二人は同性愛の仲?】
違います。
懺悔室のシーンから誤解をする人も居ますが、神父との会話をきちんと読み取れば、コルムが同性愛者でないのはあきらかです。
むしろ同性愛者の可能性が高いのは神父の方です。
コルムから冗談を投げ返されただけで、激昂してコルムを追い出しています。
独身の男ふたりが仲良しというだけで同性愛を疑っているのは、噂好きで学の無い村人と、この下品な神父です。
【なぜ一度に4本も切ったのか?】
思い出して下さい。
コルムは「おまえが話しかけて来るたびに指を切る。全部無くなるまで。」と宣言していました。
なぜ、パードリックが押しかけて来た後、一度に4本を切ったのでしょうか?
理由は3つ有ったと考えます。
「もう、切る指を残しておかなくても良くなったから」
「4本をまとめて切るほどの罪をおかしてしまったから」
「自分の試みがパードリックに最悪の影響を与えたと気付いたから」
【もう一人の死人はだれか?】
思い出してください。
黒衣の老婆マコーミックがした予言は何でした?
予言は「この週末に男が二人死ぬ」でした。
エンドロールまでに死んだのは何人でした?
警官の息子ドミニクが「足を滑らせて」溺死しました。
もう一人の死人は誰でしょう?
それは、映画が終わった後に自殺するコルムだと考えます。
【ドミニクは足を滑らせたのか?】
おそらく違うと私は考えます。
ドミニクはコルムによって殺されたのだと考えます。
動機は、自分のした致命的な失言をドミニクがパードリックに伝えてしまったことです。
【コルムの致命的な失言とは?】
泥酔したパードリックがパブで警官とコルムにからむ場面、その最後でコルムが無意識につぶやいてしまった一言です。
「これまでで一番おもしろかった」
【パードリックはコルムを殺そうとした?】
「2時ちょうどに小屋に火をかける。
窓から中は見ない。
犬は外に出しておけ。」
そう言ってパードリックは小屋のまわりに灯油をまいて火をつけます。
パードリックは報復合戦のあげくに、コルムを殺そうとしたのでしょうか?
違います。
もしパードリックに殺意があったら、あの賢いボーダーコリーが防ごうとしたはずです。
パードリックはコルムに害をなそうとしたのではありません。
自分が「善い人(nice)」をやめて喧嘩をすればコルムが喜んでくれる、そう思って(常識的な限度を理解できぬまま)攻撃をしたのです。
【コルムの失言が何を起こしたか?】
コルムが「もうおまえとは話をしない」と宣言し、それを受け取れないパードリックは、コルムに理由を言えと食い下がります。
コルムは何度目かの質問に対し「お前と話すのは退屈だからだ」と理由を伝えます。
パードリックはその言葉をストレートに受け取り、考えたのです「どうすれば退屈でなくなる?」
そこにドミニク経由でコルムの失言を聞いてしまします。
パブでした喧嘩した時の「これまでで一番おもしろかった」という言葉を。
【パードリックが音大生をだました理由】
コルムと仲良くしていた音大生の男に嫉妬した?
私も映画を見ている最中には、違和感を感じつつも、そう思っていました。
たぶん、嫉妬は理由の半分です。
パードリックは「善い人(nice)」ではない「コルムが喜ぶおもしろい男」になろうとしたのだと今は考えています。
この解釈は、音大生をだました話をコルムにしている時のパードリックの表情、それをどう読み解くかで解釈が分かれると思います。
【バンシーズとは何か?】
バンシーではありません。複数形のバンシーズです。
私は黒衣の老婆マコーミックはバンシーズではないと考えています。
原題の「The BANSHEES of INISHERIN」はコルムの作った曲の曲名です。
バンシーズとはコルムの心の中にある存在です。
イニシェリン島に居る「何か」が叫んでいるのです。
おそらくそれは、
見えて来た自分の寿命。
死を前に何かを残したい抑えようのないもどかしさ。
【ドミニクとパードリックは障害者か?】
生物学に障害者と言う区分は有りません。
障害者・健常者というのは行政上の都合が生んだ区分にすぎません。
時代ごとに、所属する社会ごとに、その境界線は変わります。
ただ、ドミニクもパードリックも舞台となった1923年のアイルランドの孤島の小さな村の中では、あきらかに障碍者です。
パブに行き会話するという「日常生活」に「障」=差し障りがあり、村のコミュニティーグループからは「碍」=分け隔てられた者です。
【パブでの会話の価値】
キリスト教徒にとって会話ができるというのは、神の御子である人間とそれ以外の獣を分けるための重要なポイントです。
たとえば、キリスト教徒にとって食事中に会話するというのは必須の行為です。
一昔前の日本だと「メシは黙って食え。」と叱られる家も有りましたね。
村に一軒のパブ、そこで話の相手になってくれていたのはコルムだけ。
そのコルムから「おまえとはもう話をしない」と宣言されることの重さ。
日本におきかえてみれば、、まさに「村八分」に相当しますね。
その村八分で残る二分とは、葬式(=死)と火事です。
この映画でも最後に描かれるのは死と火事でした。
【ドミニクの体の揺れ】
一定のリズムで身体を揺らすのを常同行動といいます。
警官の息子ドミニクは、ストレスのかかる場面で身体を揺らしていました。
逆に言えば、ストレスのかかっていない場面では常同行動をしていないのです。
これまで作られて来た多くの映画やドラマでは、演じる俳優が常に身体を揺らして、それが「真柏の演技」などと良い評価を得ていましたが、私はすごく違和感を抱いて来ました。
ドミニク役のバリー・コーガンは、そこをきっちりと演じています。
【ロバのジェニー】
パードリックは心が傷ついた時、ロバのジェニーを家の中に入れます。
そのたびに妹のシボーンに叱られるのにもかかわらず、家の中に入れます。
西洋でロバは「愚かさ」と「頑迷さ」の象徴です。
社会との窓口であるコルム、家の中の守護者である妹のシボーン、ロバのジェニーはパードリック自身を表している存在だと思います。
【動物たち】
ロバ以外に登場する動物は、カラス、馬、乳牛、ボーダーコリー犬など。
これらを使った象徴的な演出で、一般的な解釈を超える物はまだ見つけられていません。
よって省略します。
【妹のシボーンはなぜ結婚しないのか?】
同性愛者では?と言っている映画評論家がいました。
そのようなシーン、ひとつでも有りました? 有ったら教えてください。
妹が結婚していないのは、障碍者の兄を守るためです。
おそらく兄妹の両親は二人に「善い人」であれ、と教育したのでしょう。
閉鎖的な孤島の村の中で、自分が見捨てたら兄は生活できなくなる。
だから「善い人」である妹は兄の面倒を見続けたのです。
【不在の両親】
兄妹の両親の死に関して、映画では具体的な情報は何も描かれていません。
妹役ケリー・コンドンさんのインタビューを読むと、両親は二人同時にショッキングな原因で死んでいる、という設定だそうです。
両親の死、自分たちを「善い人(nice)」に育ててくれた保護者の突然の喪失は、パードリックのような特性を持つ人にとって度し難い衝撃になります。
兄妹が同じ部屋にベッドを置いていること、家の中に両親の写真が一枚も無いこと、映画を見ているときになぜだろうと感じていたのですが、インタビューを読んで納得しました。
【ドミニクはシボーンに惚れていた?】
ドミニクがシボーンに告白し、シボーンに断られるのは重要なシーンですね。
おそらくドミニクが話しかけなければ、シボーンは入水自殺をしていたはず。
対岸の黒衣の老婆に手招きされて、後ろからドミニクが近づいて来たことにも気づかないほど意識は「彼岸」に行ってしまっていました。
このシーンが描いているのは、妹のシボーンがカトリックでは大罪である自死の一歩手前まで追い込まれていることだと考えます。
ドミニクがシボーンに惚れているかどうか、私は気にしませんでした。
なぜ、このタイミングで告白したか?は意味を持っていると思いますけれど。
【なぜこのタイミングで告白した?】
パードリックが、虐待で傷だらけになったドミニクを家に招いてしまったからです。
パードリックが一瞬のスキをついて招いてしまった時のシボーンのあわてようから見て、家に招いたのは(少なくとも家に泊めたのは)これが初めてだったはず。
家に招くというのが大きな意味を持つのは、吸血鬼の伝説からもわかります。
パブでのシーンをみても、ドミニクは女性を見ると「あたって砕けろだ」と突進してしまう男です。
家に招いたことがドミニクのスイッチを入れた、それだけだと思います。
【窓から家の中を覗くとは?】
この映画の中で窓から家の中を覗き込むというシーンが数多くありました。
「窓から家の中を覗き込む」=言うまでも無く相手の心を探る、ですよね。
ブルーレイが発売されたら、窓から覗くシーンの時系列的な確認をしてみたいです。
もしかしたら、映画の起承転結、物語の区切りとなる重要なシーンかも知れません。
【十字架】
何度か、大きな十字架が背景に写り込んでいました。
こちらが区切りとなる重要なシーンかもしれません。
ブルーレイが発売されたら、確認してみたいです。
【魚鉤?】
映画の初めの方でドミニクが大きな鉤(かぎ)の付いた木の棒を拾っていました。
この棒はそのドミニクの水死体を引き上げるためにも使われていました。
黒衣の老婆マコーミックが持っているシーンは多くの人が言及しています。
ブルーレイが発売されたら確認してみたいことが一つ有るのですが、パードリックがコルムの家の中で最後に話をするシーンで、パードリックの背後、玄関のドアの脇に長い棒が立てかけてあったような気がします。
大きな鉤(かぎ)の付いた木の棒を、いつ、誰が持っているか、大きな意味があるかも。
【仮面と望遠鏡と書籍】
コルムの家(=精神世界)には、特徴的な三つの品物が有りました。
「仮面」「望遠鏡」「書籍や蓄音機」です。
これらが象徴する事柄って明解ですし、一般的な解釈を超えた発見はまだないので、私は書くのを省略します。
【本土からの手紙】
シボーンが本土にわたり司書の仕事についてからパードリックに送って来た手紙には、こちらに来て一緒に暮らさないかと書かれていました。
平和な孤島から内戦中の本土に来るように勧めるのは変だ、という意見がありました。
ちっとも変じゃないです。
映画の中で描かれているショッキングなシーンが、いくつかの評論で言われているような「象徴的な表現」ではなく、シボーンが目にした現実の状況であると解釈したらわかります。
パードリックのような特性を持つ人は、人間関係が濃密すぎる孤島の村に住み続けるよりも、司書を置く規模の図書館があるような都市に住む方が、ずっと「溶け込める」のは明らかです。
でも、パードリックのような特性を持つ人は、現状の生活を絶対に変えようとはしないでしょうけれど。
シボーンからパードリックへの手紙は、それを判ったうえで万が一の救済を願った悲しい、とても悲しい手紙だと感じます。
【フィッシャーマンセーター】
アラン諸島といえば脱脂していない羊毛で編んだフィッシャーマンセーターが有名です。
油分を含み、どっしりした重さのセーターは、漁師を北海の荒波から守ってくれます。
フィッシャーマンセーターのもう一つの特徴は、多種多彩で美しい編み目です。
今回の映画、舞台がアラン諸島の一つだと知ってから映画を観たので期待してました。
いわゆる典型的なフィッシャーマンセーターは、パードリックもコルムもドミニクも着ていませんでした。
あれ? と思ったのですが、この記事を読んで納得しました。
アランセーターの真実 – Jack Nozawaya ジャックノザワヤ
いわゆるフィッシャーマンセーターができたのは、この映画の時代の「後」だったのですね。
【パードリックの赤いセーター】
上のリンク先でアランセーターの話をされた野沢さんによるトークショーの記事です。
服飾から演出読み解く 映画「イニシェリン島の精霊」 野沢さんがトーク【とんがりエンタ】|あなたの静岡新聞
野沢さんは、「パードリックは赤い襟付きのセーターを着ていた。当時も今も男性が赤いセーターを着ることは無い。彼の中性的な人物像に合わせたのだろう。」と話されています。
これは気付かなかった。
改めて確認してみると、着てますね。
最初の1本が入ったボール紙の箱を机に置いて、パードリックとシボーンが食事をしているシーンで、たしかにパードリックは赤いセーターを着ています。
パードリック同性愛者説の根拠になり得る演出ですね。
私は他人からの視線に無頓着なパードリックが、色を気にせずにシボーンのセーターを家の中で来ているシーンだと解釈しますが、さて、どうでしょう。
【この映画のエンディングは?】
コルムとパードリックのセリフだけをもとに「ふたりの和解によるハッピーエンド」と言っている映画評論家がいます。
違うと思います。
根拠は、老婆マコーミックの予言した二人目の死者は誰か、ということです。
ロバのジェニーだと言っている人も居ましたが、私は映画の後に自ら死を選ぶコルムだと考えています。
映画の最後、焼け落ちた自宅の前で海を眺めているコルム。
自ら死ぬつもりなら、なぜ家の中から脱出したのか。
そのまま家と共に焼け死んでしまったら、火をつけたパードリックが殺人犯になってしまうからです。
最後のシーンでのコルムの表情や、口にするセリフから何を感じ取るかは人それぞれですが、私は全ての希望を失った虚無を感じました。
【この映画のメインテーマは?】
映画から何を受け取るか、それは人それぞれです。
映画を含めた創作物は公開したら製作者の手を離れ、受け取り手の解釈しだいで無限に広がって行きます。
ですからこの「イニシェリン島の精霊」という映画にしても、アイルランド内戦を描いているとか、同性愛者の喧嘩の話だとか、解釈は自由だと思います。
私が感じたメインテーマは知的障碍、ただし今で言う境界領域から生まれた悲劇です。
これまでの知的障害者の登場する映画は、その多くが「良く知ってみれば善い人だった。 さぁ、これからは共に生きよう。で、ハッピーエンド」という構成でした。
「イニシェリン島の精霊」は、「共に生きる。それは良い。だがその結果なにが起きるか覚悟はできているか?」を問いかけて来る映画だと私は思います。
【今後の不安】
「イニシェリン島の精霊」という映画は観客の入りがとても悪く、日本では封切りから1カ月ほどで上映館が激減しました。
今回のアカデミー賞を受賞していたら、上映館や観に行く人数が大幅に増えたと思います。
その結果、
差別的な発言が増えそうな嫌な予感がしていました。
映画サイトに投稿された感想とか、ブログとか、動画などを数百件見て来ましたが、知的障碍に触れた人は30人にひとりくらいの割合でした。
そして、その中には差別のニュアンスを含むものが、少数ですがありました。
映画が話題になり、観客の裾野が広がることで意識的な悪意の投稿、逆張りレス乞食の中二病患者による投稿が増えることを憂慮していました。
そのような投稿をする人は、「自分は健常者である」と思い込んでいる人です。
「区切りなんか無い、連続しているんだ」と気付いていない人です。
パードリックやドミニクと共に生きる、そのためには何をすれば良いか?
コルムが失敗したのは1923年のアイルランドの孤島だからか?
現代の日本にも同じ問題が有るのではないか?
これらの問いに対する答えは書きません。
今日の記事は映画「イニシェリン島の精霊」に対する私なりの解釈です。
エンドロールの後に何を考えるのか、という問いかけまでで終わります。
【主演のコリン・ファレルさんのこと】
冒頭に書いたように主演男優賞を取ると思っていました。
と言うか、取って欲しかった。
この「イニシェリン島の精霊」という映画は私の解釈では
知的な障碍によるコミュニケーション・ギャップで悲劇が起きる物語です。
その原因となる側の男パードリックをコリン・ファレルさんは演じました。
そのつらい役をどのような気持ちで演じたのでしょう。
観客に「共に生きる」とはどのようなことか考えさせる、この凄まじい悲劇をどのような気持ちで演じたのでしょうか。
コリン・ファレルの長男ジェームズ君はアンジェルマン症候群だそうです。