中学受験の算数には「○○算」と名前の付いたものがたくさん有ります。 その中の多くは江戸時代に日本で花開いた和算を起源としたものです。 なぜ、そのようなものを勉強するのでしょう?
文明開化の時期に、日本で数学教育に関する大議論があったのをご存知ですか?
勝ち残ったのは西洋式の方程式を用いた数学ですが、日本の中だけで独自に発展した和算がその対抗に成り得たというのは意外に思えませんか。
和算の元になったのは中国から伝わった算法で、それが鎖国政策の江戸時代に大きな発展を遂げました。 和算が、というより江戸時代のいろいろな学問が他の国と異なるのは、発展の担い手が大衆であったことだと思います。
江戸時代の長屋にはてんびん棒をかついだ棒手振りが次々に訪問販売に来ていました。 長屋の四畳半に座っていれば開け放した戸口の前を一通りの生活必需品が通り過ぎて行くわけで、いわば移動式コンビニが戸口の前を流れて行くようなものです。 驚くことに、その中には貸し本屋もいました。 特権階級の住む武家屋敷ではなく長屋に貸し本屋が来る。 大衆がお金を出して楽しみとして本を読む、これってすごいです。
貸し本屋が扱う本としては今で言うグラビア誌、ガイドブック(旅行、江戸名所、吉原、武家年鑑・・・)、小説(伝奇、恋愛、怪異、ハーレム系、ハーレクイン系・・・)、ハウツー本(料理法レシピ、健康、ペットの飼い方、修身)、随筆など、今の本屋さんの棚に並ぶタイトルと同じですね。
そしてそれらの定番タイトルの一角を占めたのが『塵却記(じんこうき)』、算数のテキストです。
この本には基本的な計算の仕方(そろばんの使い方)から、実用的な算術(面積や体積の求め方や、相似を利用して樹の高さを求める方法など)、そして遊戯的な問題などが収録されています。 巻末の遊戯的な問題には遺題といって解法が書かれていないものもあり、読者に挑戦していました。 我こそはと思う算術家はそれらの解法を自分の本として出版し、さらに自分で作った遺題を載せることで発展して行きました。
やがて本ではなく絵馬に問題を書いて神社に奉納する形で公開し、解法を思いついた者がまた絵馬を奉納するという形式で誰もが参加できるようになり、発展の速度が向上すると共に、趣味としての算術が広く大衆に拡がった訳です。 そのような絵馬のことを算額といいますが、古い神社には今でも残っているものが有ります。
和算にルーツを持つ中学入試の問題は、つるかめ算、馬乗り算(のべ算)、布盗人算(差集め算)など数多く有りますが、よく紹介されているのは次の問題ですね。
【問題】
さる盗人、橋のしたにて、絹をわけとるを見れば、八反づつわくれば七反足らず。又七反づつわくれば八反あまると云。盗人の数も衣(きぬ)の数もしれ申候。
【解説】
なぜ7反不足していたものが8反の余りになったかといえば、ひとりあたりの反数を1反ずつ減らしたからです。 よって盗人の人数は 7 + 8 = 15(人)
反物の数は 7 × 15 + 8 = 113(反)
このような例題だけを見ると明治の文明開化で和算が西洋数学の対抗馬に成り得た理由は分かりませんが、和算にどのような計算法が扱われていたか知れば納得できます。
万有引力の法則、その計算法となる微分積分法の基本定理を確立したニュートン(1642-1727)とほぼ同じ時代に関孝和(1642?-1708)が居ます。
この関孝和の実績がすごい。 円周率を11桁まで計算し、微分法積分法にほぼ近い計算法を開発し、筆算による代数の計算法を発明し、世界で最も早く行列式・始終式の概念を提案し、などなど。
結局、諸般の科学知識の導入からの都合もあり西洋式の数学が高等教育に採用されたわけですが、入試問題の中にその解法が遺産として残っていることを知ると、受験算数に対して面白いって感じる度合いが増すような気がします。